川邊祐之亮氏インタビュー(前篇)
プロフィール
有限会社ジャパンスタイルシステム代表
http://www.jss-kyoto.jp/
友禅染作家、グラフィックデザイナー、同志社大学大学院ビジネス研究科伝統産業グローバル革新塾招聘講師
1965年、京都の友禅工房の長男として生まれる。広告企画会社勤務を経て、実家の工房に戻り手描友禅染作家の父に師事、友禅きものの制作を手がける。1996年、京都府より京もの工芸品技術後継者に認定。同年、京都府工芸産業技術コンクールにて新人特別賞。2001年、友禅文様をコンピューターグラフィックスで制作するデザイン企画会社、有限会社ジャパンスタイルシステムを起業。2003年、京セラ名誉会長稲 森和夫氏が委員をつとめる「京都市ベンチャー企業目利き委員会」Aランク認定。2004年にはアテネオリンピック、2006年シンクロワールドカップ、2007年世界水泳でシンクロ日本代表の水着をデザイン2005~2008年シーズン中日ドラゴンズのグラウンドコートのマーキングデザインを手がける。2008年 ロボットクリエーターの高橋智隆氏(ロボガレージ代表)とコラボレーションし、2008年G8サミット外相会合の国際メディアセンターに展示されたG8参加国をイメージしたコンセプトカー“京友禅デザインコンセプトG8バージョン”8台他をデザイン
趣味
オートバイ。気の合う仲間とツーリングに出かけること。普段町中では忘れがちな、里山の季節毎に違う空気の温度やにおいを肌で感じることができる。パソコンの前で仕事をしている反動かも知れません。
好きな映画、ゲーム、音楽、アニメなど
「2001年宇宙の旅」(スタンリー・キューブリック監督)何度観ても映像や音楽の美しさにため息が出ます。「千と千尋の神隠し」(宮崎駿夫監督)子どもといっしょに数え切れないくらい繰り返して観ています。が、その度新たな解釈や発見があるのが楽しいです。「七人の侍」(黒澤明監督)登場人物の中では志村喬さん演じる島田勘兵衛に憧れています。音楽:レッド・ツェッペリンなどの英国系ロック。最近では邦楽アニソンもお気に入り。
当機構公式ホームページ、TOP画面並びに事業案内のグラフィック画像をご提供頂きました川邊祐之亮氏。小学生時、モントリオール・オリンピックのポスターを見て「かっこいい」と思ってから、「大人になったらこういうものを作る人になりたい」と憧れをもち続けていました。
現在のようなCGI(コンピューターグラフィック)友禅をはじめたきっかけとは何ですか?
小学校、中学校、高校と画塾に通ってグラフィックデザインの専門学校で2年間勉強した後、京都でも随一といわれた広告会社に就職しました。友禅作家の長男として生まれたため、後を継ぐことは当然の流れではありましたが、友禅作家の子息が他所に修行に行くのもよくあることで、私は迷うことなく広告業界を選びました。余談ですがその広告会社の社長は仲畑貴志氏の小学校の同級生とのことでした。そこで、広告デザイン、プロモーション、パブリシティなど一通り勉強し、1990年代にバブルがきたところで父の友禅の仕事がものすごく忙しくなり、22歳の時に家業を手伝うことになったのです。広告の仕事は体力勝負という側面もあり、父も若い時に忙しすぎて身体をこわし後々苦労をした、ということから、身体をこわさないうちに転身しようという意図もありました。当初は家業の友禅の図案作りや染めなどを職人さんたちと作り上げるということに一生懸命で、10年ほどは友禅ひと筋という感じでしたが、バブル期が終わると飛ぶように売れていた着物が売れなくなり、業界自体が斜陽にばりはじめたのです。そこで現代のテクノロジーと友禅を結びつけた新しいビジネスを模索し始めました。それが今につながったかと思います。
CG友禅について着物業界自体の反応というのは?
バブルを経験した後、僕は着物をメーカーにおさめるようなBtoBビジネスは崩壊している気がして、直に消費者の反応が感じられるようなビジネスをしたいと思い始めました。
当時、映画やアート作品などのコンテンツを劣化の少ないデジタルメディアに保存するというデジタルアーカイブというのが言われ始めた時で、1999年頃から京都の伝統をデジタルアーカイブ化しようと京都市役所が主体となって推し進めていました。京都の着物組合に話がきて、私がパソコンが使えるというので声が掛かりました。
私としては「着物の図案、色合わせなどをCGで完成予想図を作って、お客さんに見せたら販売促進につながるんじゃないか」と思いつき、職人がほぼ勘でやっている色合わせや図柄合わせの部分を数値として合理化しようと思い、また、バージョンが5.5だった頃のアドビイラストレーターを使って染色図案をデジタイズしました。
BtoCの反応はいかがだったでしょうか?
僕自体は自分のアイデアと染色図案のデジタル化作業を非常に楽しんでというか、わくわくするような気持ちでやり遂げました。ところが図案をもって呉服屋さんをまわっても、必要とされないという現実を認識しました。京都で着物を作ろうというような人は、「おあつらえ」の楽しさや贅沢さも楽しみたいのであって、完成形には面白みを感じないということがわかったのです。
高級ブランド品を買うのと一緒で、友禅を買うこと自体がありがたいごとに一種のステータスになっているようです。「私は川邊の作るものを気に入ってきているから、絵を見たいわけではない。私の好みは分かっているでしょうし、川邊が私に作ってくれるものが着たい。絵がほしいのなら絵がついているものを最初から買いにいく」ということでした。お客さまは他にはない付加価値を求めて私どものところに着物を作りにこられているわけで、作家に作らせるというところの喜びが感じられなければどこで買っても相違はないということだったのです。なるほど、CGの完成予想図自体は完ぺきなものを作ってもあまり必要とされないわけです。
CG友禅をはじめた当初、作り手として学んだことは?
自分のやりたいことを職人さんたちに押し付けようとしたのではないかというような気もしました。友禅屋に生まれ、最初の就職先として広告業界を選んだ僕は、合理的なビジネスモデルを目のあたりにし、何とか実家の商売と結び付けようとCG友禅で着物を受注するということを思いつき、作業を楽しんでやりました。いざCG友禅による着物が染めあがってみると私自身まったく感動しませんでした。
友禅の図案をCGで作ってその図案を職人に渡したらそのままできるだろう、と合理的な手段を思いつき、その通りのものは確かにできましたが、何のおもしろみも感じなかったのです。当時若造だったものですから年配の職人さんとの幾度にも渡る厳しいやりとりもあったのですが、そういったやりとりによってできた着物の方が手ごたえも感じ、お客さまにも喜んでいただいているというのがわかりました。
それまで、職人とディレクターの間は1+1=2ではなく、それ以上のものができていたのだ、と気づきました。職人もディレクターも両方が予想しえなかったいい方向のものができて、次第に表現方法が洗練されていく。僕の頭の中で完結したものでいいという人もいるのかもしれませんが、うちは協業によって自分のもっていないものが付加されるのであればそれもいいだろうというスタンスであり、川邊のものができているが、それ以上のものはないということに対しての怖さもわかりました。超合理的なCGは着物の通用しないと思いました。
その後方向転換をされたということでしょうか?
CG友禅の図柄をどうしようかとなったときに、印刷データになるな、と思いました。今まではなかったCGでの友禅図柄は印刷データとして利用することができるのではないかと思いました。CGなどの近代的なフォーマットに翻訳する事で日本の文化をみんなが手軽に楽しめるのではないかと思い始めました。
染織デジタルアーカイブ研究会に、僕のアイデアと技術をだして、このソフトを使ってこう作ればこういうものができる、とメンバーに教えました。こういう風にオープンソース化したこと、プロジェクトが広がりました。そこで「ジャパンクリエーション2001」に京都の染織作家が作った本物の友禅のCGデータを世に問うてみるか、という流れになったのです。反応はよく、「ミズノ」さんからいきなり商談がかかり、「speedo」の水着が友禅柄で作れないかとなったわけです。
2004年アテネオリンピックのシンクロチームの水着を作った経緯についてお聞かせ下さい。
「ミズノ」さんから「speedo」の水着をといわれ、チャンスがきたな、と思いました、というのは、僕は小さい頃から野球が大好きで、「ミズノ」のグローブを持つことは一種のステータス、憧れのブランドでした。野球選手になりたい、と思っていたのに、友禅の道に入り、「夢破れたり」と思っていたところに「ミズノ」とここで出会えるなんてというわけです。 また、1997年の長野オリンピックを見に行った際、スキー・ジャンプ団体戦で白馬のジャンプ台を跳んで、日本チームが金メダルをとり、一帯が感動で包まれるのを見て、「オリンピックはすごいなー、自分もいつかオリンピックに何かしら関わりたい」という思いを強くしました。「ミズノ」の水着のデザインに関わることにより、その先のオリンピックに関する仕事が何か見えた気がして、4年ほどかけて、オリンピックの仕事がしたい、とアピールしていきました。まず、目の前の仕事を一生懸命やり、信頼と実績を作り、その上で「オリンピックが大好きなんで何かやらせてほしい」とプレゼンすることを続けたのです。恋愛と一緒でラブコールし続けたわけです(笑)。僕なりのプレゼンを続けているうちに「ミズノ」がアテネオリンピックのシンクロナイズドスイミングの水着を製作する、ということで僕に白羽の矢があたりました。
「ミズノ」としてサポートするけれども、デザイナーとして日本水泳連盟に紹介するから、あとはしっかりやってほしい、という感じで、当時のシンクロナイズドスイミング日本代表チーム井村雅代コーチとのデザインに関するやりとりがはじまりました。
結果日本代表は銀メダルを獲得し国際舞台で評価され、僕としてもうれしかったです。
水着のデザインで国際舞台で評価されるために意識したこととは?
僕もそれまでに海外での活動していたため、海外にでると、思いもつかないあたり前のことを聞かれたり、驚かれたりということがあると思っていました。海外の人を感動させるにはどうしたらいいか、という点で考えていたことが井村さんと同じでした。
海外では日本の女性はすばらしい、といわれる。私たちが欠点に思っていることが美点にかわることもあるのです。日本のことをとりわけ海外の知識層は好きであり、欧米の猿まねではなく、日本独自のものを見せることによって国際舞台の一線で評価されるのではないか、ということです。そういった核がいっしょであったということもあり、仕事の進みも早く、オリンピック本番まで5ヶ月もある2004年3月に井村コーチはデザインを決めてくれました。
海外に日本のよさを紹介するための必要なコンテンツは幾つかあって、海外の一線で活躍している人にはそれがわかります。井村さんやその他海外で一線で活躍する人と、共通のものをもっていたというのがわかり、うれしかったのと、なお且つ日本代表が銀メダルを獲得し、感慨深かったです。
僕にとって、自分の作ったものがはじめて第一線にでて評価を頂いたわけですが、人を上手にもちあげて力を発揮させてくれる、いい仕事をさせてくれるいいエキスパートと仕事ができたおかげではないかとも思います。
(取材・文:総務部広報室 小林真名実 / 【1】撮影:新井貴夫)